発生から2ケ月+2週間

昨日(7/6)の朝から鎮痛剤を飲むのを止めている。この10週間毎朝絶対に欠かさず、これを飲まないとまるで歩けない状態だったのに嘘みたいだ。ヘルニア君の存在が薄らいでいるのではないか。MRIを何度も撮る余裕はなく、医者に聞いても何を診察してくれる訳でもないので、頼りになるのは自身の感覚だけなのだが、どうも身体は回復に向かっていると思って間違いなさそうだ。未だ前傾姿勢や走るのは膝から下が痛くで無理だが、歩行も着座も起床も寝返りでも、確実に痛みは引いている。妻にも、なんだか最近動きが軽快になったわね、と言われた。この分では手術が必要とは思えない。今月中には走れるようになるんじゃなかろうか。
仕事はどうするか。寿司屋は休職扱いにしてもらっていて、今の身体なら体力的にも復帰できなくはないと思う。1年と2ケ月続いた見習い合宿生活は、見方によっては何もまだ覚えちゃいない、とも言えるし、お前は不器用だなと貶され続きであった位なのだが、自分なりに貴重な経験ができたと思う。総じて言えば、寿司を握る、という行為そのものよりも魚を仕込む段取り、スピード観、味はもちろん温度・調味料・器・盛込・衛生・冷蔵庫や厨房内の整理等々あれこれへの細かい神経の使い方を散々叩き込まれた。調理については、お客へ出すだけでなく賄いという場が勉強になった。兄弟子が作る10分カレー。自分はじゃがいもの皮むきだけで10分かかっていた。
昨年の秋くらいから寿司業界の売上が落ちたという話をよく聞いた。昨年対比2〜3割減とか。高級店の方が売上は落ちるだろう。だが、立ちの寿司屋が安さを売りにするチェーン店や回転寿司に席巻されるばかりとは思えない。自分で仕込んだネタを自分で接客して供する行為は外食の中でも特異だ。配膳要員を雇用しなくてもオーナー一人で店を回せないことはないのだ。そういう商売の場合、接客、仕込みができるに越したことはないが、むしろ掃除、洗濯、食器洗いとあらゆる雑用を黙々とこなす役回りに需要がある。市場が右肩上がりの時であれば、より新規需要を生み出せる高い技術を持ったレシピの多い職人が重宝されがちかも知れないが、今はそうも言っていられないんじゃないか。つまり、少なくとも日本に限る話、不景気であっても、何でもこなす見習にはそれなりに需要があり、逆に技術があっても仕事を選ぼうという態度では煙たがられるということ。と言っても、そうした労働需要が反映されるのは、自分如きでも見習2年目になれば給料が少しは上がり、一方、35万円が上限と言われた都内の雇われ職人の月収水準が今年は保証されるかわからないらしい、というレベルだ。そして、経験・スキルや条件を抜きにしても、年齢が上がる程雇用機会は少なくなる。勤め先でも毎週のように求職の問い合わせがあったが、9割以上が50歳以上の人達で、彼らにオファーが発せられる機会はまずなかった。39歳の未経験者として就職活動をした1年前の自分は、面接の際、あんたいい年して何考えてんの?と不思議がられることもあった。だったら呼び出すなよ、と思ったが、そういう先ばかりでもなかったので今日に至った。仕事は楽ではないかも知れないが、究極一人で完結できてしまう寿司屋における見習いは、何でもこなさなくてはならない代わりに何でもできる可能性がある。分業化が進む居酒屋チェーンなどでは皿洗い専門の外国人アルバイトがいたりするが、ヨーロッパに存在するような黒人の握り手は日本では考えにくい。では、東アジア人であったなら、回転寿司であったなら、どうだろうか。そこには壁があるかも知れない。折角、日本にいる日本人であるなら、やる気次第でどこまでも究める余地のある職場を選ぶ意義はあるのではないかと思う。大将は、自分は2年足らずで独立したものの、我々には3年という時間を一つの区切りとして口にしていた。
で、身体が元通りになったところで修行を再開するかどうかなのだが、とりあえず5月までの職場には戻らない(戻れない?)つもりだ。ヘルニア発症以来のこの2ケ月好きなだけ寝て過ごす怠惰な生活に身体がすっかり馴染んでしまった。社会保険の書類手続きだけやって後はブラブラしているこんな過ごし方が以前にもあったと思い起こすに2007年後半のフランスでの生活だった。当時は周囲の環境のせいだということにして帰国後社会復帰を果たしたつもりだったのが、また逆戻りしてしまったみたい。
今日は七夕。河童橋通りにぶら下がる長女の短冊は「パパの腰が早く治りますように」、我が家にぶら下がる次女の短冊は「きたろう(鬼太郎)になれますように」。